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伊能忠敬(いのうただたか)とベンジャミン・フランクリンは、若い時に商人として活躍しながら、人生後半には全く別の分野で《業績》を残した偉人です。特に伊能忠敬は、井上ひさし氏の小説『四千万歩の男』の中で『人生二山(ふたやま)を生きた人』として描かれた人物でもあります。 |
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★伊能忠敬(江戸時代末:1745年~1818年:享年73歳) |
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伊能忠敬は、現在の千葉県九十九里町に生まれ、満17歳で婿入りする形で伊能家の家業(酒造業、醤油醸造業、貸金業、米穀取引仲買業等)を発展させた人物です。36歳の時には、事業の成功や人望を背景に、佐原村の名主となっています。しかも、天明の大飢饉(1782〜88年)を乗り切るなど、政治的あるいは経済的な手腕も発揮しているのです。
忠敬は、1794年には、周囲に惜しまれながら隠居をし、かねてよりの願望だった“天文学”を学ぶために50歳(1795年)で江戸へ行き、当時31歳の高橋至時に弟子入りします。その頃は、実態と合わなくなった暦が“寛政暦(1797年)”に生まれ変わった時期でした。
ところが伊能忠敬らは、これに満足せず更に正確な暦を作るため、同一子午線上で基準星が見える角度の差から地球の大きさを測定することを企図します。その際、測定地点間は遠い程よいとされ、蝦夷地に入ることを狙うのです。蝦夷地に入るには幕府の許可が必要になるため、伊能忠敬一行は地図作成を口実に、蝦夷地に入ります。これが、全国地図を作成する第一歩になりました。 |
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★ベンジャミン・フランクリン(アメリカ建国の父の一人:1706年~1790年:享年84歳) |
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ベンジャミン・フランクリンは、アメリカ独立(1776年に宣言)運動に際し、大使としてフランスの援助を取り付けた政治家ですが、凧を上げて、雷が電気であることを示した科学者としても有名です。また、アメリカの最高額紙幣(100ドル札)の肖像になったことでも知られています。
ベンジャミンは、1718年に印刷出版業で兄の徒弟になります。この事業は、ベンジャミンの代で成功を収め、『若き商人への手紙』という著作の中で、『時は金なり』という名言につながりました。ところが氏は、42歳を迎える1748年にビジネスを引退し、公職に専念するようになります。
当初はペンシルベニア植民地議員や郵便局長を務めましたが、啓蒙思想普及活動の中で、1751年には、現在のペンシルベニア大学を創設しています。1776年には、アメリカ独立宣言の5人の起草者の1人となり、独立戦争が1783年に終結するまで、主にフランスで政治活動を続けました。
印刷出版業から啓蒙思想家、更には政治家へと、流れは一貫しているようではありますが、人生前半の42年と後半の42年で、大きな“二山”が見えるのです。
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